tunakorokkedayoのブログ

ミーのハー太郎

プロミシング・ヤング・ウーマン考

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ネタバレしかないです。観た人向け。観てない人は読んでもよくわかんないと思う。

 

久しぶりに映画を観て、お話もヴィジュアルも音楽もすごく面白かったから興奮してしまった。

 

昼はカフェ店員をしているキャシーは、夜な夜なバーで泥酔したフリをして身体目当ての男に持ち帰られ、男がいざ行為に及ぼうとするといきなりどシラフに豹変して相手を罵倒する、それはキャシーなりの男性への復讐だった。。というところから話がはじまっていくんだけど、まあ男性器を噛みちぎったりしてないし優しい復讐だなと思う。復讐というか、彼女なりの怒りの表出+それでも世の中には0.000000001%くらいの確率で身体目当てじゃない、相手の同意がなければ性行為に及ぼうとしない、酩酊した女の体調を真剣に案じてくれる男性がいるんじゃないかという薄ーーーーーい期待混じりの行為だったんじゃないかと思う。その証拠に映画の中盤くらいまでのキャシーはまだ男性の善性を信じていて、かつての大学同級生のライアンには心を開きつつあったし。

 

そもそもなんでキャシーがそんな行為に及んでいたかというと、親友で同級生だったニーナが同期の男性にレイプされた挙句動画に撮られてそれをまわされて、大学を辞めて心を病んで亡くなってしまった(これは多分自殺だったんだと思う)からで、ニーナと一心同体のように仲が良かったキャシーもショックを受けて同じく大学を中退して、カフェバイトをしながら復讐の鬼となる。

この流れは後で冷静に考えるとんーえっとちょっとなんでそういうことになった?って思うんだけどとにかくテンポが良くて映画鑑賞中はあんまり気にならないです。そもそも人の行動なんて整合性のないものだもんね。

 

彼らが通っていた大学というのが医大で、つまりニーナもキャシーも将来医師となる、将来を約束されたプロミシング・ヤング・ウーマンだったんだけど男性からの一方的な暴力でその道が閉ざされてしまうことになった、という話。

 

 

 

物語の導入で、見事に身体を犯されずに堂々と朝帰りを果たして徒歩で帰宅中のキャシーに、工事現場の作業員たちがキャットコールをし、キャシーがそれに対して恥ずかしがるような素振りを全くせずに彼らの顔をじっと見返した時、男達が鼻白んでキャットコールが徐々に「女だったら女らしく笑え!」「ブス!」みたいな罵倒に変わっていったシーンは、わかりやすくこの世界で女性が日常的に受けているハラスメントを示していると思う。

女の肉体が好きだけれども意思を持たない人形であって欲しい、ましてや女が男を攻撃するなんてあり得ないと思っている男性達に3歩歩けば出くわすような世界で、キャシーが彼らに反撃を加えていきますよ、これからそういう話がはじまりますという導入で、この時点でめちゃくちゃわくわくした。ここで流れる曲もいいんだよな〜。

 

 

私的にポイントだったのが彼らが医学部に通っていたというところで、私も同じ学部を卒業したので既視感がいっぱいだった。医学部がホモソなのは世界共通か〜。

目立つ男子達は調子に乗ってるし、彼らと親しくつきあっているような目立つ女の子たちも男性的な加害性を内包して共犯のような関係にある。

自分たちの加害性がなにかというのを全く自覚しておらず、ちょっとヤンチャなだけの根はいい奴のかわいい俺ら、というような自己認識である。(劇中、俺はいい奴なんだというセリフが何度も色々な男性の口から出てきたね)

学生時代「ヤリ部屋」と呼ばれていた、同級生男子の住む高級マンション、それをネタみたいに聞いていた自分や周りの同期、とかが次々思い出されて比喩でなく本気で気持ち悪くなってしまった。飲んでたアイスラテのせいかもしれないけど。

 

一番絶望的なのは、実際に先陣切って手を下しているような男性たちだけでなく、その周りの男性たちもそれを笑って眺めていられるくらいの加害性があるということで、実際にライアンはレイプ犯の男性と自分とは違う、俺はあいつみたいに派手で遊び好きじゃないみたいな雰囲気を出しつつレイプの現場に居合わせてもその後何事もなかったかのように生活をしていた。

この、一見ナイーブで女性の事をきちんと尊重しているかのように見える男性も実は日常的に女性への加害に参加しているという描写はチョン・ミギョン著「ハヨンガ」にも書かれていて既視感があった。

女性から見て、自分の男性パートナーが自分を尊重してくれていて、女性蔑視的発言を自分の前ではしていないからといって、その男性が全ての女性に対してそのように振る舞っているかというのは全く分からない。むしろパートナーや家族だけには女性蔑視的な一面を見せない男性も多いのかもしれない。カン・ファギル著「別の人」にもこの辺のことが書いてあって、話の内容的にもプロミシング・ヤング・ウーマンと近いところがあったので興味がある人は読んでみてね。

映画の中で、キャシーのお父さんは優しく思いやり深い娘の理解者として描かれていたけど、キャシーのお父さんも成功して、立派な家に住んで、娘を医学部に入れるような白人男性なんだもんなあ。。ってちょっと思った。キャシーのお父さんが女性蔑視みたいな描写は特にないのでこれは私の深読みです。

 

 

ほとんど全ての女性が当事者として鑑賞できる身近な問題を描きつつ、映画らしいトリッキーさもあり、「ゴーンガール」や「シンプルフェイバー」みたいな結末の爽快感もあって、スタイリングと音楽もめちゃくちゃ良くて、最近観たなかではいちばん面白い!と思った映画だった。

 

 

観てない人はぜひ映画館でやってるうちに観てほしいなー。

 

ちなみに、これをみた男性が、ライアンに劇中で制裁が下ってほしかった、と言っていて、たしかにライアンには酷い目に遭って欲しいんだけど、あそこでライアンに罰が下されると話がそこで完結してしまって、「「物語」」として終わってしまう。

実際ライアンみたいに直接レイプするまではいかないけど自己本位で女性蔑視的な考えを潜在的に持つ人間が多くいるから、ああいう終わり方をしてライアンのその後を鑑賞者に考えさせることによって、この物語に参加させていく意図があるのかなと思った。

 

 

結構わかりやすく作られていて、お前ら絶対にわかれよ、気付かなかったとは言わせないからなという製作者の意図がギンギンに伝わってくるのもこの映画で好きだなと思った部分です。

 

 

 

補足)日本の小説だと姫野カオルコ著「彼女は頭が悪いから」が似ているんだけど、彼女は〜だと男性側より偏差値が低いとされる女子大生がレイプされるのに対して、プロミシング〜では成績上位の、なんなら男性より頭が良かったのでは?という描写のある女性がレイプされており、頭が良かろうが男性と同等に稼いでいようがミソジニーを内包する加害男性の前ではただのはけ口でしかないんだなあと思う。最後の山小屋のシーンの無力感がすごかった。